2006年11月10日

教育現場への私見

御堂筋にも数日前、木枯し一号が吹き、公孫樹並木から黄緑の葉が歩道に舞い、銀杏の熟した実が乱れ落ちて特有の異臭が漂っています。
朝夕は冷え込む様になったとは云え、葉の色付きは今だ緑が勝っており、黄色く色付いているのはチラホラです。
さて、今頃「いじめ」「高校の未履修」「教師の問題」と学校教育の有り方が噴出していますが、こんな事は、今に始まった事では有りません。

「いじめ」これは人類が社会生活を営む様になってから連綿と行なわれて来た事です。
子供社会で有ろうが、実社会で有ろうが、人間が集まれば起る事です。
”出る杭は打たれる”こんな諺が成り立つのもむべなるかなです。
しかし大人は云います。
「他人と違う事を為せ。ユニークでなければならぬ。」
そんな大人の云う事を忠実に聞いていたら、たちまち「いじめ」に遭うのです。
大人だって解るでしょう。 自分が特異であれば、周りから浮いてしまうのが。
生きると云う事は、こんな辛い事を包含しているのは事実です。
しかし人は何故、生きれるのか?
それは、いじめ等の辛さを打ち消して除り有る、もっともっと楽しい事が待ち受けているからですよ。

「高校の未履修」の問題は、これも昔から有った様な気がします。
自分に置き変えても、美術や音楽の科目は無かった様に記憶していますし、世界史、日本史、地理。生物、化学、地学等、何を履修したか憶えていません。
三年生になれば、授業は殆ど無く、自習ばかりだった様な気がします。
されど、必修科目と云うものは、勝手に決め付けた制度の問題でしょう。
それが、70時間足りないとか、100時間足りないとかは問題じゃなく、大学予備校に成っている制度が問題なのです。

「教師の問題」
これは、自分の経験から、尊敬できる、或いは為に成る先生というものは、居なかったと云う事です。
戦後、一時期、「でもしか先生」と云う言葉が流行りました。
先生にでも成るか、先生しか成れないと云う当時の落ちこぼれが、教師に成ったのですから、押して知るべしです。
そういう教師が、今、校長・教頭等の管理職をして、喰いぱぐれの無いという理由で教師になったサラリーマンに期待しても無理です。
坂口安吾は「親が有っても子は育つ」と云いました。
教師が居ても勉強は出来るのです。 学校は兎も角、勉学する場所です。
小学六年間、中学三年間、高校三年間、教師はどうであれ、ひたすら好きな科目を見つけて勉強すれば良いのです。
教師に期待などしない方が良いのです。
posted by 津々浦々 at 16:03| Comment(32) | TrackBack(8) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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